翌日、は早朝に目を覚ました
     ここまでは、いつもと何も変わらない習慣だった

     唯、の頭の中は酷くぼんやりとしていた

     眠気のせいだろうかと、紅茶を濃い目に淹れてみたが一向に頭の中の濃い霞は消え去る気配は無かった
     顔をもう一度洗ってみようと洗面所へと立って、は気がついた
     …ドアの隙間から、金木犀の香りが家の中に忍び込んでいることに

     条件付けのように、の脳裏に昨日の男の事が思い浮かぶ



     結局、あれが誰であるのかさっぱり不明なまま、一夜が明けた
     の中に忸怩たる思いが無いと言えば、それは嘘になる



     一瞬にして視界から消え失せた人
     …本当は、あれは人間ではなかったのかもしれない
     ひょっとしたら、私を戒めるために神が現れたのかも



     …でも、今私の体を侵食するこの香りはどうだろう?
     彼の残り香のような金木犀の匂いは、それが幻ではないと主張していた



     『私を、探すが良い。』



     そんな声が、金木犀の強い香りと共にの脳の奥に響いてくるような気がした
     …耳にしたはずの無い、男の低い声が










     「探さなきゃ…あの人を」









     口にした後で、は自分に驚いた
     探すって…どうやって?



     「…馬鹿げてる。どうかしてるわ、私。」



     くすり、と自らを嘲るようには目を閉じて笑った
     瞼を閉じても尚、浮かび上がる男の影
     銀色の髪の、赤い瞳の…誘うような微笑み


     「…仕事、仕事!」


     は大きく頭を振ってテーブルから立ち上がった
























     今日の任務は、泉の砂の採取だった

     小さな試験管を手にして、はボトムの裾を捲り上げた


     「そろそろ水が冷たくなって来たわねー。…真冬になったらどうやって仕事するのかしら?此処まで来て霜焼けなんてことになったら、洒落にならないわ。」


     埒も無い事を一人ごちながら、はよいしょ、と掛け声を掛けて泉に足を踏み入れた







     10月の泉は、盛夏よりも尚緑の気配が濃い
     日に日に空が高く、透き通ってゆく
     そんな空気の変化を、此処の木々達も感じているのだろうか
     枯れ始める前のほんのひと時、戯れのように緑を強くする
     湿度の低くなった風が、の横顔を掠めた
     …何処にあるのか判らない金木犀の香りを乗せて








     「もうすぐ落葉し始めたら掃除が大変かもしれないわね、これじゃ。」


     泉の真中まで辿り付いて、は頭の上にぽっかりと開いた穴のような空を見上げた
     突き抜けるような青空と裏腹に、の頭は酷く重かった
     時間の経過に伴って、良くなるどころかますます霞が濃くなって行く

     …正直、こんな酷い調子で仕事をするのはあまり気が進まない
     でも、これが私に与えられた職務だから
     きちんと遣り遂げなければ…あの人に怒られるような、そんな気がする


     「…ん、しょ。」


     泉中央の水の噴出し口に手を伸ばし、は湧き出す水を試験管に納めた
     砂が入らないように、作業は細心の注意を要する
     試験管の中身を確認して、はボトムのポケットからコルクの栓を取り出し封をした


     「次は…砂、ね」


     はもう一本の試験管を取り出すと、静かに砂の中に埋めて行った
     …つもりだったが、意識のぼんやりする頭では、手元も不如意だ
     突然ガキッ、と何かにぶつかるような鈍い音がして、試験管は見る間に砕けた



     「痛ッ……!」



     押さえた右手首の間から、ポツ、ポツと真紅の雫が滴り落ちる
     泉の上に零れた雫は、水面を緋色に染め、散って行く


     鋭利なガラスで傷ついた手首は、鋭く深く切れていた
     がくん、と泉の中に膝をついたは、自らの身体の中から温もりが徐々に失われて行くのを感じた



     …そういえば大昔、この泉に身を投げた女性が居た、と泉の伝記に記してあったわ
     彼女も、こんな気持ちだったのかしら…



     水の中に蕩々と溶け出して行く自分の血を見ながら、酷く寂しいような、
     それでいて幸福なような不思議な心地には包まれていた
     傷口は大きく開いて見るからに痛いはずなのに、まったく何も感じない
     …この泉の、聖なる力の成せる業なのか

     それでも、一歩一歩、自らが死の淵へと近付きつつあるのがわかる
     音も立てずに流れて行くこの血液の、なんと美しいことか
     そしてこの瞬間も尚、香り続ける金木犀の香り
     あの人が、まるで側に居てくれるような気がする
     …ようやく、手が届いたかな…












     バシャバシャバシャッ










     意識が遠のいて行くの聴覚を呼び覚ますように、異(い)なる音が飛び込んできた
     誰かがこっちに…近付いて来る?

     泉に座り込んだが振り返った先には、泉の中を走ってくる男が居た
     …長い銀髪を振り乱し、赤い瞳を大きく見開いて



     「そなた、何をしておる!…危ないではないか。」



     …夢幻の中で聞いたものと同じ声が、の耳に木霊した



     「ああ、やっぱり低い声なのね…。」

     「何を言うておる、しっかりせい。斯様な所で死んではならぬ。」



     男の腕が、の身体をゆさゆさと揺さぶる
     温かな感触が、触れられている背からに伝わって来る
     それは紛うことなくこの男が神などではない事を証明していたのだが、意識に霞が掛かった状態のにはそこまでの考えが及ばない



     「神様、私は…この泉の守人だから。…だから、此処で生きるのと同じように、死ぬのも此処が良い。」

     「死ぬ、などとゆめ申してはならぬ。」


     短く応えた男の瞳を、はうっすらと開いた目で覗き込んだ
     …この血よりも尚、深く美しい赤がそこにはあった


     「最初はね、この仕事を私がすることにどんな意味があるのか判らなかった。
     …こんな単調な仕事なら、私じゃなくても他の誰でも良いじゃないのか、って。
     でも、昨日貴方に出会って、ちょっとだけ判ったの。…こんなに美しい場所を私が守っているんだ、と。
     例え小さくても、これが私の守る所。そして今は、私以外の誰も此処を守ることはできない。
     『守る』ということは、とても受動的なように思えるけど、本当はとても能動的なことなのね。
     …だって、『守る』ということは何かを育むことなのだから。
     大きなプロジェクトをバリバリこなすことだけが生きがいのある…充実した仕事だと思っていた。
     でも、それは間違いだって貴方に教えられたような気がするの。」

     「私は何も教えてはおらぬ。…唯、一つ言える事があるとすれば、今この瞬間、そなたは真にこの泉の守人になったということかもしれぬ。」

     「ふふ。ありがとう。…これで私も、此処の守人になれたかな。」


     は顔を上げて男に微かに笑い掛けると、深く傷ついた自らの右手を見下ろした
     今、この瞬間にも、の体内の血液は失われて行く


     「……でも、こんなに血が出て行っちゃった。…もう駄目かな。なんだか…とても…意識が遠くなる…気がする。
     でも…良かった。今度こそ貴方に手が届いたから。
     今まで、何時も届きそうで触れられなかった、そんな望みを手にすることがようやく叶ったから。」

     「…もう良い、これ以上話すな。」


     男は、を見詰めていた目を一層細めた
     の顔色は、この瞬間にもじわじわと青白く変化して行く
     それでも尚、自らの生きる道を見つけた喜びを語るを痛いほど愛しいと思った


     「……そなたを、死なせはせぬ。生きよ。私は…生きて輝くそなたを見たい。」


     男は、最早ぐったりとしたを抱き起こすと自らの小宇宙を最大限に高めた







     …反魂など、ここ100年はしておらぬ
     だが、そのような悠長な事を言うておる場合ではない
     …死んだなど、見たいものか
     生きよ、







     「冥王よ、の魂は暫し教皇たるこの私が預かり置くっ!」







     男が天に向って言い放つと同時に、巨大な黄金の小宇宙が男の身体とを覆う
     男の纏うキトンの裾が、小宇宙によって引き起こされた風圧ではたはたと舞い上がり、たなびいた








     「散り失せし魂よ、帰りきたれ!汝(なれ)の帰るべくは…冥界に非ざるなりっ!」








     男が両腕を大きく振り翳して叫ぶと同時に、の身体に一瞬赤みが差した
     ドクン…との体が鼓動を打ち始めた
     最初は弱弱しく、しかし徐々に強く















     終始を見届けた男は、腕を下ろすとその赤い目を細めて口を開いた



     「……ははは、どうだ!私は取り戻したぞ、の命を!見るが良い、今、この瞬間にもの命の輝きが増して行くのを!」



     天を見上げて大声で笑いながら、男は涙を流していた



     「……涙か、斯様な物もここ暫く見せなんだが。……よほど嬉しいのであろうな、私は……。」



     拭っても拭っても、それは後から流れて落ちる

     足元に横たえたを、男は再び屈みこんで抱き起こした
     青白かった顔も、今では元通りに近い生気を取り戻していた
     深く裂けた右手を、男は手に取った


     「何と小さい手であることか。…だが、この細腕でそなたは大きな物を守っておるのだな。…泉だけであるものか。……この私をも守っておるのだぞ。」


     呟くと同時に、男は再び小宇宙を高めた
     …みるみるうちに、の傷口は小さくなり消え失せた


     「私は、神などではないぞ。私は……そなたを愛する生身の男。
     だからいつでも…そなたにこうして触れて居たい。」


     まだ意識を取り戻さないの顔を覗き込み、男はそっと唇を付けた



     「ふふふ…この私もどうやら人恋しい時もあるようだ。…もう歳かもしれぬな。」



     自嘲するように空を振り仰いで笑った後、男はを抱えて泉を跡にした











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